日本サッカーの躍進を支えた古河電工サッカー部のDNA “シンボル”としての気概を持って。

きよくも・えいじゅん。1950年生まれ。山梨県出身。法政大学を卒業後、1973年に入社。1982年までサッカー部員として活躍し、引退後は監督に就任。1986年には日本のチームとして史上初のアジアクラブ選手権優勝に導いた。1991年からは日本代表チームのコーチを務め“ドーハの悲劇”を経験。1994年に古河電工を退社後、1994年からジェフユナイテッド市原の監督を2年間務めた。
偶然の出会いと唐突のテスト
山梨県のとある寺の長男だった私がサッカーと出会ったのは、1964年、中学2年の時に観た東京オリンピックでした。
銅メダルに輝いた日本代表チーム、その中心選手だった釜本邦茂さんのプレーに憧れ、サッカーへの興味を強く持ったことを今でもはっきりと覚えています。日川高校時代はラグビー部とサッカー部を掛け持ちしたものの、次第にサッカーの魅力に惹かれ、法政大学に進学してからはサッカーに専念するようになりました。
古河電工と出会ったのは、大学4年になって間もなくのことでした。
チームのキャプテンだった私は、練習メニューのアドバイスを受けるため日本サッカー協会に問い合わせの電話を入れました。その時に対応してくださったのが、古河電工サッカー部のOBであり、東京オリンピックの日本代表チームでキャプテンを務めていた八重樫茂生さんです。私が「1年間の練習メニューについてアドバイスをいただきたい」と伝えると、八重樫さんは「練習を見てあげるよ」と3日間の臨時コーチを快く引き受けてくださいました。偶然にして、とても幸運な出来事でした。
その最終日、八重樫さんに将来の予定を聞かれた私は、実家の寺を継ぐ意思があることを伝えました。「サッカーを続けたらどうだ?」という八重樫さんの提案に対して「檀家の皆さんに聞いてみないと」と答えたことは、今となっては笑い話です。何しろ、当時の私は自分がサッカー選手になる未来など一度も考えたことがなかったのです。
それから数日後、再び八重樫さんから電話がありました。
古河電工サッカー部の川淵三郎監督に話を通しておくから練習試合に行ってこいと、そんな内容でした。私は軽い気持ちで「はい」と応え、当日、指示に従ってまずは東京・丸の内の古河電工本社に足を運びました。出迎えてくれたのは古河電工の社員としてサッカー部のマネージャーを務めていた小倉純二さんです。1階の喫茶店で昼食を御馳走になって検見川グラウンドに向かうと、そこで待っていた川淵監督から「今日は清雲のテストをする。全力を出してほしい」と伝えられました。
対戦相手だったヤンマーディーゼルサッカー部には、中学生の頃に憧れた釜本さんがいました。
私のポジションは守備を専門とするディフェンダーです。ボールを扱う技術に優れていたわけではありませんが、しかし180センチの身長とラグビーで鍛えた身体の強さを武器に、相手のエースをしつこくマークする守備を得意としていました。
サッカー選手になることを夢見ていたわけではないから、テストに合格したいと強く思ったわけではありません。しかし元来から負けず嫌いで勝ち気で鼻っ柱の強い私は、日本サッカー界の大エースである釜本さんを目の前にしても一切ひるむことなく「どうせやるならこの人を抑えたい」と猛然と向かっていきました。
ところが……。
勢い余って釜本さんの足を蹴り上げてしまったばかりでなく、空中戦では頭突きを見舞ってしまったのです。釜本さんは「やってられない!」と激怒してピッチをあとにし、ヤンマーディーゼルの監督だった鬼武健二さんも「あいつがやっているのはサッカーじゃない!」と激怒したそうです。
それでも、テストの結果は「合格」でした。それが、私が古河電工に入社し、古河電工サッカー部に入部するきっかけとなった出来事でした。

選手として過ごした10年間
入社1年目の1973年は、人生における大きな転機だったと言えるかもしれません。
古河電工サッカー部では、東京・メキシコ五輪日本代表ディフェンダーで闘将として活躍した宮本征勝さんに徹底的に鍛え上げられました。
前述のとおり相手のエースを止めることだけを得意としていた私は、ほとんどまともにボールを蹴ることさえできませんでした。見かねた宮本さんにチーム練習前の“早出”と練習後の“居残り”を命じられ、1年かけて徹底的にサッカーの基礎を叩き込まれたのです。
特訓の成果はすぐに表れ、2年目の1974年には初めて日本代表に招集されました。監督の長沼健さん、コーチの平木隆三さんがいずれも古河電工OBであったことは幸運というよりほかありません。

私のサッカー人生はいつも幸運に恵まれていました。諸先輩方の手厚いサポートのおかげで1974年から1976年まで3シーズン連続で日本サッカーリーグのベストイレブンに選ばれ、1976年にはリーグ初優勝に貢献することができました。選手としては当時のトップリーグであるJSL(日本サッカーリーグ)で丸10年プレーすることができました。
引退を考えるきっかけとなったのは、1980年に入社した岡田武史の存在でした。
当時からメガネをかけていた彼は、ひ弱そうに見えて、実は誰よりも戦える選手でした。それでいてとてもクレバーで、声でチームを動かすことができる生粋のリーダーでもありました。
のちに日本代表監督として発揮される抜群のリーダーシップは、大卒1年目の当時からしっかりと備わっていたのです。まさに“ピッチの上の監督”と言える存在でした。
1980年は古河電工サッカー部にとってタレント豊作の年でした。岡田と同時期に入部した田嶋幸三、吉田弘、加藤好男らのプレーを見て、私は、彼らを指導する立場に回りたいと考えるようになりました。
社内に受け継がれた文化
午前中のみの勤務だったとはいえ、プラスチック事業部の一員として営業に励んだ時間はとても大きな財産になりました。
担当したのは発泡ポリエチレンなどの水を通さない原材料製品です。問屋や大手ゼネコンとの交渉窓口を担う仕事の中で、社外の人たちとも良い関係を築けたことに大きな充実感を覚えていました。私が日本代表の遠征などで長期の不在となることを伝えると、彼らは必ず「頑張ってこいよ」と背中を押してくれました。社内外においてそうした関係性があったからこそ、社業に対して消極的なサッカー部員はひとりもいなかったと記憶しています。
会社のサポートはいつも温かく、手厚いものでした。
1974年から社長を務められた舟橋正夫さんには、年に1度、日本サッカーリーグの開幕前に中華料理屋での決起集会を開催していただきました。後援会の皆さんや健康保険組合の皆さん、各地方事業所の皆さんはいつもサッカー部の活動をバックアップしてくださいました。
今になって思えば、会社はサッカー選手の扱いに慣れていたのかもしれません。
私たちの前には東京五輪やメキシコ五輪を経験した先輩たちが多く在籍していましたし、そういう選手が同じ会社で働いていることを誇りに思ってくれていたのだと思います。古河電工には、そうした文化が脈々と受け継がれていました。
アイスホッケー部との交流も懐かしく思い出します。私たちサッカー部が彼らの活動拠点である日光に出向いたり、逆にアイスホッケー部が横浜を訪れてくれたり。交流を目的とするソフトボール大会はとても楽しかったし、日光東照宮のすぐ近くにあった社員倶楽部は本当に素晴らしい施設でした。今はもうなくなってしまいましたが、私は、あの美しい佇まいの歴史的建造物に宿泊できることをいつも楽しみにしていました。

アジア王者に輝いたことの意味
現役最終年の1982年にコーチを兼務し、1984年からは監督を任されました。2年目の1985年にリーグ優勝を成し遂げ、翌1986年のアジアクラブ選手権に出場できたことは幸運でした。
もっとも、大会への出場は簡単ではありませんでした。同時期には国内ナンバーワンを決する天皇杯が開催されるため、どちらに出場するかを選ばなければならなかったのです。
私は監督としてコーチの川本治と選手たちの意思を確認しました。「アジアクラブ選手権に出場したい」というのが彼らの総意でした。「天皇杯への出場を辞退してまで行くべきではない」という声も少なくない中、当時の社長である日下部悦二さんの「行ってこい」のひとことで、私たちは決戦の舞台であるサウジアラビアへと向かうことを決めました。
監督の立場にあったとはいえ、選手たちとの年齢が近かった私は“仲間意識”を持って彼らと接していました。
キャプテンは絶大なリーダーシップを誇る岡田武史。最終ラインを支える金子久とのコンビには抜群の安定感がありました。大会直前には西ドイツでプレーしていた奥寺康彦が帰国してチームに加わり、その存在に触発された永井良和はキレのあるプレーを見せました。互いに刺激し合い、切磋琢磨できる素晴らしいチームでした。もしかしたら、監督は必要なかったかもしれません。
私たちは決勝リーグでアル・ヒラル(サウジアラビア)、アル・タラバ(イラク)、遼寧省(中国)に連勝し、日本のサッカークラブとして史上初めてアジア王者に輝きました。
この経験が選手たちに与えた自信は計り知れません。もちろん、私自身にとっても大きなターニングポイントとなりました。このタイトル獲得があったからこそ、私は指導者としての道を進むことを決意したのです。
進むべき道を決めた“ドーハの悲劇”
1988年に監督を退いてからは公共営業部に所属し、Jリーグの発足に合わせて「ジェフユナイテッド市原」として生まれ変わるための準備を進めていました。今で言うところのスポーツダイレクターにあたる仕事で、主にチーム編成業務を担当していました。
ジェフユナイテッド市原はJリーグ初年度の1993年に奥寺の尽力もありピエール・リトバルスキーやフランク・オルデネビッツなど、旧西ドイツ出身の世界的な名選手を獲得することに成功しましたが、それまで日本人の“純血”を貫いてきた古河電工サッカー部にとって、外国籍助っ人選手の獲得にはとても大きな意味がありました。1991年に加入したパベル・ジェハークもそのひとりでしたが、これは古河電工だからこそ実現した移籍として強く記憶に残っています。
当時、古河電工アイスホッケー部の監督を務めていたボフミル・プロシェクは、彼の母国チェコでは誰もが知る名将でした。その伝手(つて)を頼ってスラビア・プラハでプレーしていたパベルの存在を知り、プロシェクの影響力があったからこそ獲得交渉はスムーズに進んだのです。Jリーグ開幕の気運が高まる中でチームを牽引したパベルの活躍は、アイスホッケー部によるチェコとの強いつながりがあってのものでした。
古河電工サッカー部にとって初の外国籍選手であるパベルの活躍を見届けた1992年、私は日本サッカー協会からの打診を受けてハンス・オフト監督率いる日本代表チームのコーチに就任することになりました。

ワールドカップ・アメリカ大会の出場を目指すアジア最終予選では、日本サッカーの歴史上最も重要なトピックのひとつである“ドーハの悲劇”を経験しました。30年以上の年月が流れた今もあのショックを忘れることはできません。しかし、あの経験によって、私は指導者としてもプロの道を歩くことを決めました。
日本代表コーチ時代も日本サッカー協会への出向という形で送り出してくれた古河電工に残る道もありました。実家の寺を継ぐ選択肢もありました。しかし、ドーハの悲劇を経験した私は、指導者の魅力に取り憑かれていました。
1994年1月、そうして私は、20年間勤めた古河電工を退社しました。

一緒に写っているのはコーチの岡田武史氏(中央)と神戸清雄氏(右)
シンボルとして存在する意味
私を含めたサッカー部員は、会社の手厚いサポートがあったからこそ心置きなくサッカーを楽しむことができました。そして、その恩に報いたいという思いで社業にも精を出したからこそ、社内外で多くの出会いに恵まれ、アスリートが“その後”を生き抜くための社会性を身につけることができたと思います。
当時の日本では、サッカーはまだマイナースポーツのひとつに過ぎませんでした。だからこそ、会社からのサポートを「当たり前」と考えることなく、常に強い責任感を持ってピッチに立ちました。私たちのそうした姿勢が伝わったことで会社や仲間と良い関係性が築けていたのなら、それ以上の喜びはありません。
現在の古河電工に勤める社員の皆さんに私から伝えたいのは、何かひとつの“シンボル”を見つけてそこに意識を集中させることは、組織の一体感を生み、底力を引き出すための大きなきっかけになるかもしれないということです。
たったひとつのシンボルさえあれば、そこに人が集まり、コミュニケーションが生まれ、絆が深まり、新たなモチベーションやアイデアが生まれるでしょう。
幸いにも、古河電工サッカー部はジェフユナイテッド市原・千葉と名称を変え、今もなお古河電工のサポートを受けながらサッカー界の最前線で戦っています。ぜひ、皆さんのシンボルとして関心を寄せてください。きっと、何か大きな力が生まれるはずです。
