日本サッカーの躍進を支えた古河電工サッカー部のDNA 学んだのは、人を育てることの意義。

えじり・あつひこ。1967年生まれ。静岡県出身。清水商業高(現・清水桜が丘高)3年時にキャプテンとして同校初の全国高校サッカー選手権大会優勝を経験。明治大卒業後の1990年に入社し、1993年のJリーグ開幕をジェフユナイテッド市原の選手としてピッチで迎えた。引退後は指導者として活躍し、ジェフ千葉や北京五輪日本代表などでコーチ、ジェフ千葉で監督を経験。2020年1月からは東京ヴェルディの強化部長を務め、同クラブのJ1昇格、2024シーズンの6位躍進に大きく貢献した。
高校時代からの“ご縁”に導かれて
古河電工とのつながりは、実は清水市商業高(現・清水桜が丘高)3年の時からありました。
私たちはその年の全国高校サッカー選手権大会(第64回大会)で初優勝を成し遂げることができたのですが、1回戦から3回戦まで、試合会場はすべて横浜の三ツ沢球技場でした。1回戦は1月2日。その開幕前に練習試合を組んでくださったのが、横浜・平沼橋グラウンドを活動拠点としていた古河電工サッカー部だったのです。
あれから40年近くの歳月が流れた今でも、岡田武史さんにお会いすると必ず言われます。「高校時代の江尻は本当に生意気だった」と(笑)。
左ウイングのポジションでプレーしていた私は、その練習試合で岡田さんと何度もマッチアップしました。当時岡田さんのことをまったく知らず「なんだこのおっさん」くらいに思いながらマッチアップしたものの、そこでは一度も岡田さんを抜くことができず……。それが原因で、本番の高校サッカー選手権大会ではスランプに陥り、まったくと言っていいほど活躍できなかったのです。
ただ、このご縁がなければ、当時の古河電工サッカー部で監督を務められていた清雲栄純さんに気にかけてもらうことはなかったかもしれません。
清雲さんには、明治大1年次から「卒業したら古河に来い」と何度も声をかけていただきました。加えて、明治大サッカー部の練習場である八幡山グラウンドには同部のOBであり、古河電工サッカー部のOBでもある能勢剛行さん(1955年入社)がよく足を運んでくださっていました。そんな大先輩にまで「清雲に言われているから」とプッシュされては……(笑)。当時は「明治大サッカー部のキャプテンならどこへでも行ける」と言われた時代でしたが、当時の古河電工サッカー部が私にとって"行きたい場所"であったことは間違いありません。
アジアクラブ選手権で優勝したというニュースは高校生時分の私にとって衝撃的でした。チームには清水市商業高の4学年上の先輩である後藤義一さんがいましたし、四日市中央工業高出身で、2学年上の憧れの存在であった越後和男さんがいることも知っていました。当時はまだ日本サッカーのプロ化が“可能性”として聞こえてくる程度でしたが、古河電工には、働きながらサッカーを続ける上で理想的な環境が整っていると思いました。
静岡の実家には、監督の清雲さんとサッカー部の部長であった小倉純二さんがわざわざ足を運んでくださいました。私は迷うことなく、古河電工に入社することを決めました。

社業と向き合ったことで得たもの
配属先となった金属事業本部では、本当に多くのことを学ばせていただきました。
直属の上司は明治大の先輩であり、アイスホッケー部の監督を務められたこともある丸井課長でした。同部署はアイスホッケー部のOB社員が多く在籍する“体育会系”で、それは私自身の働きやすさに対する清雲さんの配慮でもありました。
配属されて間もない頃、丸井課長に言われた言葉を今でもはっきり覚えています。
「もしも日本のサッカーがプロ化しても、それだけで食っていけるとは限らない。だから今のうちに社業に励め。きっと人生の助けになる」
午前中は丸の内の本社に出勤。午後は横浜の平沼橋グラウンドで練習。それが終わると丸の内に戻り、また仕事に励むという毎日を繰り返しました。丸井さんは言いました。
「必ず17時に戻って来い。そこから一緒に仕事をしよう」
私の仕事は営業職でした。アポイントメントを取り、案件を獲得して端末で管理する。製作拠点である日光の工場に発注し、納品までをフォローする。
日光工場で工程管理を担当していた佐藤さんには「そんな納期でやれるわけがないだろ!」とよく怒られました。私が端末で発注をかけるたびに電話が鳴り「お前には現場の大変さがわからねえだろ!」と怒鳴られるのです。それが悔しくて、5月、ちょうどサッカー部の活動がオフになる時期に実施された日光工場実習に自ら申し込んで参加しました。佐藤さんと朝までお酒を飲み、「お前も大変だろうから、こっちも頑張ってやるよ」と言われた時は本当に嬉しかった。社員時代の印象的な出来事として、今でもはっきりと記憶しています。
丸井課長の言葉のとおり、もしサッカーがプロ化したとしても、その世界で食っていけるという絶対的な自信があったわけではありませんでした。そういう意味では、私は現実主義者だったと思います。「食えなくなったらどうしよう」と真剣に考えていたからこそ、社内では与えられた仕事だけでなく、何にでもチャレンジし、どこにでも飛び込んでみようという意欲がありました。
もっとも、自分のキャリアや人生観については時間の経過とともに激しく変化していった気がします。
社業と真剣に向き合うことで見えてくる世界がある。サッカーで結果を残すことで感じられる可能性がある。自分自身が年齢を重ねれば立場が変わるし、周りの人の意見を聞いてなるほどと思うこともあります。
当時のサッカー界はプロ化へと向かう激動の時代にありました。だからこそ、会社員として積んだ経験は大きな財産になったことは言うまでもありません。丸井課長との約束を果たして社業に励んだ日々が、サッカー選手としての現実的な目標を見据える上でとても大きく役立ったと実感しています。
古河電工の“人を育てる”気質
私が入部した1990年は、古河電工サッカー部にとって大きな転換期であり、世代交代の真っただ中にある過渡期でもありました。
監督は清雲さんから川本治さんに替わり、岡田武史さんをはじめとするベテラン選手の多くが引退しました。同期として阪倉裕二、影山雅永、小久保悟、松山博明、京谷和幸と私の6人が加入しました。
チームにとってはのちに川本さんが「2部に落ちてしまうかもしれないと思った」と振り返るほど苦しい時期でしたが、私にとってはいい思い出しかありません。
よく面倒を見てもらったのは越後和男さんと松山吉之さん。五十嵐和也さんにも可愛がってもらいました。サッカーにおいては菅野将晃さんに「お前のサッカーは通じない」と厳しく言われ、絶対に見返してやるという気持ちで練習に臨みました。しかし若返りを図ったチームにおいては年齢が近い選手が多く、ピッチ外ではみんなでよく遊び、社業にもサッカーにも励むかけがえのない時間を過ごしました。
2年目の1991年6月には約3カ月間に及ぶロンドン・ウェストハムへのサッカー留学を経験させてもらいました。当時のウェストハムはイングランド2部に降格したばかりで、チームをイチから作り直すというタイミングでした。炊飯器とお米だけ手渡されてスタートしたコンドミニアムでの現地生活を含めて、私にとっては本当に貴重な経験でした。
当時の古河電工は、「人を育てる」という感覚を強く持っていたように思います。
サッカー部員の海外留学は極端な例かもしれませんが、人に対する投資を惜しまない姿勢は社業を通じてひしひしと感じられました。ひとりのサッカー部員としても「頑張れ」と背中を押してもらう感覚がありました。古河電工のそうした姿勢から学んだことの意味は計り知れません。
組織には目標があり、それを実現するための予算がある。では、その予算をどのようなバランスで配分し、投資すれば、組織の活動は有機的に機能するのか。投資の対象が“人”であるという考え方は、私自身の今の仕事に通じるところであり、古河電工で学ばせてもらったことだと思っています。

リティに叩き込まれたプロ意識
ロンドン・ウェストハムへの留学から帰国したのが1991年9月のこと。直後に迎えたJSL(日本サッカーリーグ)のラストシーズン開幕戦の光景を、今でもはっきりと覚えています。
会場は西が丘サッカー場。対戦相手は本田技研。雨が降るとても寒い日で、お客さんは“数えられるほど”しかいませんでした。
それからたったの1年半後に“チケットがまったく取れない状況”に大きく様変わりするわけですから、1993年のJリーグ開幕を迎えた時は「本当にこれが現実なのか」と疑ってしまうほどでした。それと同時に、「これを一過性の人気にしてはいけない」という責任感が芽生えました。
古河電工サッカー部はジェフユナイテッド市原として生まれ変わりました。

奥寺康彦さんの尽力によって開幕直前に加入したピエール・リトバルスキー(愛称:リティ)には、「本当にプロなのか?」と何度も怒られました。
例えば、試合会場までのバス移動でのこと。私はチームメイトと移動時間中カードゲームの『UNO(ウノ)』を楽しんでいました。負けた試合の帰路も「気持ちを切り替えよう」と言いながら『UNO』を広げると、リトバルスキーからの「ふざけるな!」というカミナリが。以来、帰りのバス移動では必ずその日の試合映像を観ることになりました。
今となっては幼稚に思われるかもしれませんが、当時の私たちの“プロ意識”はその程度のものでした。日本リーグ時代は試合が終わればすぐに飲みに出歩いていましたし、コンディション管理について考えたことなどほとんどありませんでした。
リトバルスキーは特にピッチ外の心構えや振る舞いについて、徹底的に叩き込んでくれました。プロ選手にはトレーニング以外の時間がたくさんある。それをいかに自分のために使えるか。それを突き詰めるのがプロフェッショナルであり、それをピッチで表現するのがプロフェッショナルであると。私たちと真剣に向き合い、何度も話してくれました。
私自身の意識は、あの時代に劇的に変化しました。だからこそ、サッカーをプレーすることが楽しくて仕方がなかった。たくさんのお客さんに観てもらい、責任を感じながらプレーすることの価値を体感した時期でした。

オシム監督と古河電工の共通点
現役を引退し、指導者になってからのキャリアにおいても大切な思い出がいくつもあります。中でも、やはりイビチャ・オシムさんと過ごした日々は忘れられません。
初対面はシーズン開幕前の韓国キャンプでした。夕食会場に現れたオシムさんは、会うなり「このチームが勝てない理由」を聞いてきた。私が答えられずにいると「このチームに最も長く関わっているお前がわからない。それがこのチームが勝てない理由だ」と言われてハッとしました。
いきなり厳しいことを言われたことに対して驚いたのではありません。オシムさんの頭の中で私の顔と名前が一致し、さらに「このチームに最も長く関わっている」という情報がインプットされていることに驚きました。もちろん私だけでなく、オシムさんはすべての選手、すべてのスタッフの情報をインプットした上でチームに合流していたのです。

その他にもオシムさんからは多くの気づきや学びを与えてもらい、オシムさんの指導スタイル、考え方、発信力、そして存在そのものが、私自身のサッカー観や人生観を大きく変えてくれました。
一人ひとりに責任を持たせ、それを厳しく追求しながらも絶対に切り捨てない指導者としての姿勢は、“人を大切に育てる”という古河電工の社風にも通じると言えるかもしれません。たった数年間のことであったとはいえ、オシムさんが率いたジェフユナイテッド市原・千葉から多くの人材が育ち、素晴らしいチームが完成しました。それは、古河電工サッカー部との共通項でもあると言えると思います。
サッカー界の表舞台のみならず、グラスルーツ(草の根運動)においても日本サッカーの発展に貢献してきた古河電工サッカー部OBが数多く存在します。サッカーはすべてが連動しており、強化、育成、人気、スポンサードなどあらゆるカテゴリーが支え合うことで全体が大きく成長する。そのすべてに古河電工サッカー部の力が影響していることは間違いありません。
“いいチーム”を作るためには“いい人材”が不可欠です。その点において、日本サッカー界における古河電工サッカー部の貢献は大きいと、今、改めて実感しています。
