日本サッカーの躍進を支えた古河電工サッカー部のDNA 私のルーツは古河電工にある。

おくでら・やすひこ。1952年生まれ。秋田県出身。相模工大附属高卒業後の1970年に古河電工入社。1977年に旧西ドイツの1.FCケルンに移籍し、10シーズンにわたって世界最高峰のドイツリーグ「ブンデスリーガ」で活躍した。1986年に古河電工サッカー部に復帰すると、同年度の天皇杯優勝とアジアクラブ選手権優勝に貢献。1988年に引退後はサッカーの普及活動に尽力し、1991年にはジェフユナイテッド市原(当時)のGMに就任。1996年には監督も経験した。1999年からは横浜FCのGM、代表取締役社長を歴任し、現在は同クラブの代表理事兼シニアアドバイザーを務める。
2012年、日本サッカー殿堂入り
きっかけは、信頼する指導者のひとこと
私と古河電工のつながりは、実は、中学時代までさかのぼるところから始まります。
中学3年の夏合宿でのことでした。当時、東邦チタニウムサッカー部の監督を務められていた三村恪一さんが臨時コーチとして練習を見てくださる機会があったのですが、「頭を使ってプレーしろ」と言う三村さんの指導は私にとって、とても新鮮で興味深いものでした。その三村さんが、相模工大付属高(現・湘南工科大附属高)への進学が決まった私に対してこう言ったのです。「奥寺は……将来は、古河電工サッカー部かな」と。
高校3年間、私の頭の中にはその言葉がうっすらと残っていました。だから進路について考えた時、三村さんに「あの時、言いましたよね?」と冗談交じりに伝えたのです。ところがこのやり取りは冗談では終わらず、三村さんは「おお、そうだったな」と笑いながら段取りを進めてくれました。
数日後、私は古河電工サッカー部の練習試合に呼ばれました。場所は世田谷区の第一生命グラウンド。相手は立教大学。古河電工の監督は小川宏邦さんで、コーチは川淵三郎さんでした。FWとして出場したこの試合の評価によって、翌春からの古河電工への入社とサッカー部への入部が決まりました。1970年のことでした。
サッカーがマイナースポーツでしかなかった当時においても、私はできるだけサッカーを続けたいと思っていましたし、いずれはJSL(日本サッカーリーグ)でプレーする選手になりたいと思っていました。もちろん、ある程度の自信もありました。神奈川県内においてはトップレベルの選手であると自覚していましたし、当時のユース代表、今で言うところのU-18日本代表にも最後まで入っていましたから。
でも、18歳で飛び込んだ社会人サッカーの世界は、想像よりずっと大人の世界でした。当たり前だけれど、高校を卒業したばかりの自分から見ればオジサンばかり(笑)。鎌田光夫さん(1960年入社)や宮本征勝さん(1961年入社)、上野佳昭さん(1962年入社)は実際の年齢差以上に年上に見えたし、自分とそれほど離れていない桑原隆さん(1967年入社)や雨宮勝己さん、前田善一さん(ともに1968年入社)でさえも大ベテランに見えた。高校サッカーとは別世界のインパクトは、今でもはっきりと覚えています。
ただ、実際にチームの一員になってみると、先輩たちに「ああしろこうしろ」と細かいことを言われることもなく、1年目から伸び伸びとプレーさせてもらえたと思います。とにかく楽しかった。遠征に行けば宿舎ではいつも大部屋での雑魚寝で、先輩たちとコミュニケーションを取り、仲を深める時間がとても好きでした。1年目は入社後すぐにユース代表の遠征や23歳以下のJSL選抜チームの選考会があってなかなかチームに合流できなかったのですが、それでも、JSLという舞台、古河電工サッカー部というチームでサッカーをやれることが楽しくて仕方がなかった。私にとっては、そんな時期でした。

楽しかった社業と試練
他のサッカー部員と同様、社業に対しても前向きな姿勢で臨んでいました。というより「それが当たり前の時代だった」と言う方が正しいかもしれません。
最初の3年間は“横電”(横浜電線製造所、現在の横浜事業所)に勤務していました。まずはアンテナを扱う新規事業部に配属され、半年後にはケーブルの耐圧試験などを行う“中研”(中央研究所)に異動となりました。ケーブルに何十万ボルトもの電圧をかける耐圧試験を深夜に行うのですが、その準備を主な業務としながら、時には試験に立ち会うこともありました。
自分にとってはとても楽しい仕事でした。練習がない日には仕事終わりに近所の酒屋に出向き、事務所の裏庭に椅子を並べて同僚との楽しい時間を過ごしました。そうそう、休日にはみんなでボウリングに出かけることもありましたね。同僚には本当に恵まれましたし、とても居心地のいい職場でした。
そうした雰囲気の良さ、風通しの良さは古河電工の社風なのだと思います。横電に3年勤務したのちに本社への転勤が決まり、サッカー部の練習は「週3回」から「毎日午後」に切り替わりました。必然的に社業に割く時間は減ってしまうのですが、それでも、サッカー部に対する社内の温かい配慮がなくなることはありませんでした。
サッカーを続ける上で、その社風に救われた部分はやはり大きかった。だからこそ社業に積極的なサッカー部員が多かったのだと思います。忙しければ午後の練習後に職場に戻り、そこから営業に出る人も、夜遅くまで残務整理にあたっている人もいました。
理由はシンプルで、「先輩たちがそうしていたから」に尽きると思います。サッカー部に所属しているとはいえ“プロ”ではない自分たちは、会社に「サッカーをやらせてもらっている」という意識を強く持っていました。だからこそ、先輩たちは社業にも真剣に向き合ってきた。だから、後輩たちも同じように仕事に励む。会社とサッカー部の関係性は、互いへのリスペクトによって成り立っていた気がしますね。
サッカーにおいては、20歳を過ぎた頃に発症した腰痛がひとつの試練になりました。あまりの状態の悪さに、一時期はサッカーをやめて社業に専念しなければならないと真剣に考えましたし、入院しても快方に向かわず、心が折れかけた時期もありました。
「もう難しいと思います」
サッカー部の部長を務められていた鈴木康二郎(やすじろう)さんにそう伝えると、「最後の望みを託すつもりでここに行ってこい」と、ある治療院を紹介されました。1週間、1カ月、2カ月と通院するうちに、慢性的に抱えていたシビレがなくなっていくことが自分でもよくわかりました。半年後には痛みがほとんどなくなり、ストレスなく走れるようになったのです。まさに失意の底からの復活だったからこそ、サッカーをプレーできることの喜び、「うまくなりたい」という意欲がぐんぐん高まっていくことを実感していました。
自身の変化を促したブラジル留学
川淵三郎さんにブラジルへの短期留学を提案されたのは1976年のことでした。
選手としての私はスピードを武器としていました。しかし、ボール扱いの技術については人並み程度で、「もっとうまくなりたい」と常々考えていました。ブラジルに行けば何か大きなものを得られるに違いないと考えたからこそ、二つ返事で2カ月間の留学を決断しました。
ところが、実際にブラジルの名門パルメイラスの門を叩いてみると、そこで行われている練習はフィジカル能力の向上に特化したものばかりでした。ボールを使う練習は木曜日の紅白戦のみ。ボールに触れる機会を増やしたければ、“遊び半分”の感覚で練習後に開催されていたサロンフットボール(フットサル)に参加するしかありませんでした。世界一の技術を誇るブラジルまで来て、走ってばかりのトレーニングをこなしていたのですからとても不思議な感覚でした。
しかし、2カ月後の1976年夏に古河電工サッカー部に戻ると、チームメートからの“見られ方”が大きく変化していることに気づきました。たったの2カ月間とはいえ、ブラジルでのフィジカル中心のトレーニングと練習後のサロンフットボールによって大きな変化が起きていたのです。私にとってこのブラジル留学は、間違いなく大きなターニングポイントでした。
帰国後すぐに日本代表に選出され、アジア諸国が出場するムルデカ大会(マレーシア開催)では7得点を記録して得点王になりました。
古河電工サッカー部は同年度の天皇杯で優勝し、1カ月後には史上初のJSL(日本サッカーリーグ)優勝を成し遂げました。今になって振り返れば、バランスの取れたいいチームだったと思います。年齢的には中堅どころが多く、みんなが自信を持って、生き生きとプレーするチームでした。
ともに攻撃を牽引するウイングプレーヤーの永井良和とは、互いに刺激し合い、切磋琢磨する間柄にありました。1対1の練習は近くで見ている人が驚くほどの本気でやっていましたし、1学年下の後輩である彼は、頼れるチームメートであり、絶対的なライバルでもありました。私は永井よりも活躍したいと思っていたし、きっと彼もそう思っていたに違いありません。
私たちだけでなく、とにかく選手それぞれの個性が強いチームでした。ピッチ外でこそある程度の上下関係はあるけれど、サッカーに対しては誰もが真剣で、だからこそ遠慮することなく、互いの存在や個性を認め合える集団でした。プロではなかったけれど、プロ意識に近いものを持っていた。私はそう思います。
楽しかったですね。本当に。意識の高いチームでプレーできることが幸せだったし、とても充実していました。

「日本サッカーのために」実現した西ドイツ行き
西ドイツ行きの話が出てきたのは、1977年の夏でした。
いろいろなことを考えて一度は断ったのですが、1.FCケルンからのオファーが熱意のこもったものであったこと、さらに当時の日本代表監督だった二宮寛さんや、川淵三郎さんの積極的な後押しもあって海を渡ることを決断しました。
1.FCケルンのヘネス・バイスバイラー監督と二宮さんは「将来の日本サッカーのためにもプロ選手を生まなければ」という話を当時よくしていたそうです。川淵さんもそのつもりで背中を押してくださいましたし、サッカー部においては多くの関係者のサポートがあって実現することになりました。
今になって振り返れば、あの頃、私が海を渡った意味は少なからずあったと言っていいのかもしれません。成功すれば実績になるし、その実績は新しいモチベーションとしてサッカー界に広がる。当時、「奥寺が行けるなら」と思った選手は多くいたと思いますし、実際のところ、韓国代表のエースであり、友人でもあった車範根(チャ・ブングン)は「俺だって必ず」と言っていました。彼が同じブンデスリーガのダルムシュタットに加入したのは、それから1年後のことでした。
もっとも、当時の私が「日本サッカー界のために」と思っていたわけではありません。誰かにそう言われたこともないし、あくまで「自分のため」としか考えていなかった。だから、プレッシャーを感じたこともありません。「感じる余裕さえなかった」というのが正しい表現かもしれません。
サッカーに没頭できた理由のひとつに、やはり古河電工の存在がありました。1.FCケルンとはプロ契約を結びながら、古河電工の社員としては“休職扱い”の手続きを取ってくれました。「奥ちゃんがいつ帰ってきてもいいように」と言ってくれた当時のサッカー部部長、小倉純二さんのサポートがあったからこそ、突然訪れたチャレンジの機会を活かせたのだと思います。
家族のサポートにも救われました。妻も当初から「一緒に」と言ってくれていたのですが、身重だったこともあり、日本での出産後に合流する予定でした。しかしその意思を1.FCケルンに伝えると「絶対にダメだ」と。そういう状況で離れて暮らせば、むしろ互いにストレスがかかる。出産についてもクラブが全面的にサポートするから心配しなくていい。だから最初から2人で一緒にドイツに来なさいと。「日本人にサッカーができるのか?」と思われていた時代にもかかわらず、1.FCケルンは本当に手厚いサポートを準備してくれていました。
そうして始まった西ドイツでの挑戦は10シーズンに及びました。あの経験がなければ、今の私は存在しません。そう思うからこそ、あの時、決断できて良かったと心から思います。

当時リトバルスキーは18歳。この時の出会いが、1993年ジェフユナイテッド市原へのリトバルスキー加入につながった

日本サッカーの変化を見てきたからこそ
日本への帰国を決めたのは1986年のことでした。
当時34歳。ピークを過ぎていた自覚はあったものの、ブンデスリーガで戦ってきた選手のプレーを日本のサッカーファンに見てもらいたいと思ったことがきっかけでした。ヨーロッパのトップリーグで10年間戦ってきたという自負があったからこそ、古河電工にはプロ契約を結んでもらうことをお願いし、実現しました。
日本サッカー界にとって史上初となるクラブチームのアジア制覇、その舞台となるアジアクラブ選手権が開催されたのはその年の12月でした。ブンデスリーガで多くの経験を積んでいたので、特別な高揚感があったわけではありません。しかし、チームとしては天皇杯出場を辞退してまで実現させた大会参加でもありました。古河電工のその決断は前例のない史上初のチャレンジだったからこそ、「未来の日本サッカー界のために」という想いは一致していたと思います。そうした意味において、周囲からの期待感はひしひしと感じていました。
古河電工サッカー部とその出身者が、日本サッカーの発展に大きく貢献してきたことは間違いありません。

歴史を振り返れば重要な決断を下してきたことがわかるし、その後の日本サッカー界において中枢を担ってきた人材を数多く輩出してきました。ただ、私の感覚では、私自身を含む“下の世代”は、“上の世代”の皆さんが作ってきたこと、決断してきたことに対してあくまで“受け取る側”の立場だったと思うのです。現在の日本サッカーにつながる土壌として何より大切だったのは“作り出す側”の立場の人々の貢献で、その影響力は本当に大きい。そこに、古河電工があり、古河電工サッカー部の人間が多く関わっていることも間違いありません。
その変化を間近に見てきた一人であるからこそ、私自身のルーツが古河電工サッカー部にあることを誇りに思っています。きっと、サッカー部の歴代部員は皆そう思っていることでしょう。なぜなら、私たちはサッカーを楽しむために特別なサポートをいただき、そこでひとりの大人として成長させてもらったことをよくわかっているからです。
現在の古河電工で働く皆さんにも、ぜひそのことを知ってもらいたいと思います。それを踏まえて、これから先の歴史を作る役割を担っているということを実感してもらいたい。
何事においても歴史を語り継ぐことの大切さは言うまでもありませんが、“語り継げる何か”があることの価値もまた計り知れません。ぜひともそれを共有したい。古河電工サッカー部の存在は、日本サッカーの歴史に色濃く刻まれています。それを知るだけでも、会社に対する見方が少しだけ変わるかもしれませんね。
