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古河電工サッカー部の歴史

古河電工は、社会人サッカーチームの草分け的存在でした。1950年代まで日本のサッカーは学生が勢力図の中心にいましたが、1960年に古河電工が実業団(企業)チームとして初優勝。1960~1970年代には天皇杯を4度制覇し、1986年にはアジアクラブ選手権で日本のクラブチームとして初めての優勝を飾りました。

1993年にJリーグが発足する際、古河電工はJR東日本と共同で“ジェフユナイテッド市原”を創設。2005年にはホームタウンに千葉市が加わり、”ジェフユナイテッド市原・千葉”に改称しました。2005年~06年にはヤマザキナビスコカップを2連覇しています。

そんな古河電工サッカー部の歴史を少しひもといてみたいと思います。

明治~大正

当社は元々社員スポーツが盛んな会社でした。明治時代から日光では自然のリンクでレクリエーションとしてアイスホッケーに興じ、そのメンバーがシーズンオフにサッカーをするといった具合です。この活動が古河電工サッカー部の発祥といえます。

昭和

昭和の初期になると丸の内本社にサッカー部が創部され、日光と選手の貸し借りをしながら活動が活発化していきます。戦時中は活動を休止していましたが、終戦後すぐに活動を再開しました。これは敗戦と不景気で灰色の空気がただよう時代にあって、3代社長・西村啓造が社員を元気づけるための措置であったと伝わっています。

1946

古河電工サッカー部創部。

第二次世界大戦終戦の翌年に活動を再開し、この年をサッカー部創設年としています。この頃も未だサッカーの専門家ばかりではなく、アイスホッケーやラグビー、ボートなどの経験者も含まれており、11人のメンバーを集めるのも大変で、身体を動かすことが好きな人を呼び集めてようやく試合をする状況でした。

1949
実業団リーグに参戦。
1952
サッカー部を強化する目的での採用を開始。
1955
4代社長に就任した小泉幸久はさらに実業団スポーツの強化を推進します。サッカーを含む4競技を"社技"に指定し、サッカー部については「強化5カ年計画」を策定して日本一をめざします。当時は学生と学生OBによる大学チーム全盛の時代であり、毎日練習できる学生に社会人はかなわないという時代でした。
1960
第40回天皇杯で初優勝を成し遂げます。この優勝は実業団としても初めての優勝であり、これ以降サッカー界の勢力図は大きく実業団にシフトしていきます。その後も単独チームとしての海外遠征、選手の海外留学制度など、世界で戦える道を開くための取り組みを次々と仕掛けていきます。
1986
さまざまな先駆的取り組みが1986年のアジアクラブ選手権で日本チームとして初優勝を成し遂げたことと無縁ではありません。
「サッカー選手としてはもちろん、一社会人としても立派であれ。」古河電工サッカー部は創部当初からこの精神が貫かれていました。この精神で鍛えられたサッカー部選手やOBたちが、「日本サッカーの将来」を築く人材となっていきました。

平成

プロ化の道を模索していたその中心に、実業団時代に企業の業績不振による休部の憂き目を見た古河電工サッカー部のOBたちがいました。彼らは企業スポーツの限界を感じていたと思います。賛否両論が渦巻く中で、競技レベルの向上や観客動員アップだけでなく、地域密着、総合スポーツクラブといった幅広く、長期的な視野に立った理念を掲げることで周囲の賛同を徐々に獲得していきます。

1989
古河電工で「プロリーグ検討委員会」を設置し、プロ化に向けた話し合いを開始。
1990
JR東日本との提携により、日本プロサッカーリーグに参加するための準備を開始。
1991
「東日本JR古河サッカークラブ(JR EAST FURUKAWA)」として日本サッカーリーグ(JSL)に参加。
1993
苦難の過渡期を乗り越えて、Jリーグが発足。
Jリーグの発足に伴い、古河電工サッカー部はその歴史を、その後間もなく誕生するプロチームに託します。